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2007/07/14 土曜日 00:00:00 MST |
小野秀二君へ 2
小野秀二君へ 1 からの続き
私のふがいなさでそれも1年でやめ、東京へ出てあっちこっちふらふらし現在に至っているのであるが、今更ながらに、私にとってのあの1年は何だったのだろうと思う時がある。いつだったかその時のチームメートの6、7人が秀二を含めて私の川崎のアパートで呑み明かしたことがある。
夫々に談論風発ユメを語るにつけ、私は突然、ああこの連中のエネルギーを私はいただいていたに過ぎなかったんだ、と思った。彼らは小さいひ弱な中学生のカラダにエネルギーをたぎらせ、汗を吹きながら私を激励していたんだ、と思い、恥ずかしくて穴があったら入りたい、と瞬時思ったものだ。
いつも夜も昼もなく酒気帯びている私にはとても秀二の写真集などは目映すぎて正規出来そうにもないが、先日その写真集のゲラを呑み店で見せていただきパラパラ繰っていて一つ思い出した言葉がある。
ケモノ、という言葉である。
それは秀二を私が最初みた時にも思った言葉であり、それだけはモノマネではなく私が内心で感じた言葉である。何かを突き射すようにギラギラと炎えた眼、欲したものを手にするには命のひとつふたつ惜しくない、というように訴える眼、それはまさに、ケモノのそれ、である。日常的に出会っているとついつい忘れていたが、写真の中にあるコート場の彼は今だにそれなのである。
残念ながら、大学や実業団のなかにはあまり見かけない眼なのである。個人の資質と言ってしまえばそれまでだろうが、何か平和に、ゲームをゲームし、ルールをルールしているというか、凡そ相手を奪る、というだいご味からほど遠いように感ずる今日この頃なのである。とまれ、小野秀二の写真集である。秀二のことをいろいろ思い巡らせていたら、ついぞ私にも忘れかけていた、ケモノの血の一滴が流れ出したみたいである。
秀二は今、ある大学のコーチをしているらしい。(1989年当時)勝たなくてもいい、とは私は言わない。 それじゃ君がやらなくても誰かがやればいいし、同好会で充分だ。勝って当たり前であり、どのように勝つかが問題なのである。
目的意識のない貧困なスポーツなど徒労にすぎない。秀二ガンバレ。
年甲斐もなく力んだりセンチになったりする男も観客の中に居るぞ。
ケモノにとって負け、とは、死にほかならないぞ。
(友川かずき / フォークシンガー、画家)
*上記は小野秀二写真集「SHUJI ONO MEMORIAL」より抜粋したものです
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